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Diary : 吉田さんか安田さんへ

ドキュメンタリーとはなんぞや、と考えてみる。一般的なイメージとしては何かしらの事実に迫った記録、みたいな認識だろうか?映画やTV番組、そし て写真でもひとつのジャンルとして確立している表現手法だけど、いろいろ調べていくとその境界線はすごくおぼろげ。まぁジャンル分けなんて大抵そういうも んだけど報道やドラマとの線引きすらもすごく難しいと思う。それはあらゆる表現において作者の主観をなくすことはできないから。何かしらの意図が介入する かぎり、完全に客観的な事実というものを表現することはできない。なんて考えてると報道もドキュメンタリーと言えるしドキュメンタリーはドラマだと言えな くもない。ドキュメンタリー作家の森達也(オウムの映画とか撮った人)もよく「ドキュメンタリーは嘘をつく」とか「すべてのドキュメンタリーはフェイク だ」的な言い方もしてる。以前何かのトークショーで彼が語ってた話では、オウム真理教の施設で“尊師専用”とマジックで書かれたシャンプーボトルを夢中に なって撮影している際に「あぁこれ、すごく主観的な記録だな」みたいなことを気づいてハッとしたらしい。

で、何が言いたいかというと写真に おいても「ありのままの日常の良さを…」みたいなこと言っても結局は恣意的なものですよ、ってこと。つまり事実とか真実みたいなものも立場や解釈によって 全然ことなりますよ。名探偵コナン君の言ってる「真実はいつもひとつ!(ビシッ)」は胡散臭いかもよ、ってこと。そういう前提で考えると「そんなひねくれ た視点で物事を見やがって!」みたいな意見も万人にあてはまるんじゃないか、と。そんなこんなで自分を正当化しています。演出はしない、公共の場で撮るこ との意味ってそういう視点の面白さとか独自性が一番試されるから魅力的なんだろな、と思ってる。みんな違って、みんな良い。もしくはみんな悪い。一人ひと りがメディア。マクルーハンの理論を代入すると一人ひとりがメッセージ。アイアムメッセージ。そしてユートゥー。

ド キュメンタリーじゃなくてもなんでも良かったんだけど、ストリートというくくりのものよりもドキュメンタリーとくくられてるものの方がそういう面白さが出 てるなぁ、と最近思ったのでこういう出だしにしてみました。きっかけのひとつはJurgen Nefzgerの写真集「Fluffy Clouds」を買ったこと。表現としてはすごくシンプルで「原発の見える場所」を集めただけ。でもそこに写ってる近景と遠景の対比が面白いんよね。向こ うでモクモク煙でてる手前でゴルフしてるおっさんたちがワイワイしてたりね。こういうのも事象そのものじゃなくて引いた視点で見てこその面白さよね。 チャップリンの言う「人生はクローズアップで見れば悲劇だけど、ロングショットで見れば喜劇だ」みたいなもんやね。逆も然りだけど。なのでこういう作品 もっと見たいです。Alexander Gronskyもそういう視点に近いよね。誰か他におすすめあれば教えて下さい。今探してるのはZhang Kechunって人のYellow Riverっていう写真集。よくコンペとかでも入賞してて本にもなってるはずだけどネット上ではだいたい売り切れっぽい。日本では書店にも並んでないのか な。

以前はよくドキュメンタリー映画とか観てたんだけど最近かなりご無沙汰で…。なので気分転換も兼ねて昨夜の仕事の合間に一本観てきた。 しばらく前に水面下でちょっとした噂になっていた「BiSキャノンボール」という作品を。簡単に言うとBiSっていうアイドルグループ(全裸PVつくった りコシノジュンコが加入したりとか無茶なことして話題づくりを試みる、アイドルビジネスの悪い意味での象徴的存在)の解散前後を追ったドキュメンタリーな んだけど6人のメンバーに密着するのが6人のAV監督というところがミソ。そして前身となる「テレクラキャノンボール」っていう作品と同様、女性と信頼関 係を築いてどこまでのことを成し遂げたかでポイントが加算されていく(最終到達点はハメ撮り)。ここまで聞くと最低にインモラルな企画だし散々バッシング もされてるけど自分はそれなりに楽しめた。意外と常識的に状況を捉える女の子たちと何か面白い結果に仕立て上げなくてはというメディア側(=視聴者の欲望 の権化)の攻防は現代社会の縮図を観ているようで興味深かったな。ネタバレしないように注意があったから結果は伏せるけど、表現に携わる人はこういう極端 な例も毛嫌いせずに見てみるといいと思う。

さっきモラルっていう言葉使ったけどこれもやっぱり絶対的なものじゃないんよね。文化のような大 きな単位ではもちろんだけど一人ひとりで異なるものだし。そういう前提で自分なりのモラルを醸成していかんとね、争いなんてなくならないよね。戦争反対と か叫ぶことよりその要因に迫らんといかんよね。こないだTVタックルでひろゆきが言ってたのもそういうことよね。ネット上で起こる犯罪を減らすにはネット を規制することではなく、モラルを育てることでしか解決しないのよね。ああだこうだ脱線しながら書いたけど大衆の幻想に惑わされずに自分はこういうのが良 いと思う、面白いと思う、ということを大切にしていきたいと思います。以上。おはよう。

※10年位前にかデスクトップの壁紙に使用していた画像。当時描いた四コママンガとかも出てきたのでそのうち公開予定!

Diary : 正しいエレクトリシティのしびれ方

最近毎日1回はこれを聞く。Captain BeefheartのElectricityって曲。バンドの15年か20年かのキャリアの中でもかな り初期の曲なんだけどこれが一番好き。いや、二番くらいかも。まぁ、好き。そもそもこのバンドのガシャガシャした感じが好きだから全体的に好き。何かメイ ンの楽器があってそれをサポートする感じで他のメンバーがあわせていくっていうよりそれぞれがグイグイ主張する感じが好き。ジャズとかでよくある形式的に ソロを回していく感じは嫌い。なんか予定調和感が強くて…。まぁそこにも様式美のようなものはあるんだろうけど。

この曲は(特にCDに入っ ているバージョンのやつは)ちょうど歩調に合うから歩くとき俺がエレクトリシティだ!感があって良い。ペラペラしたギターも、タムやシンバルの数が最小限 な感じのドラムも良い。ピンポイントな言い方だけどメインのリズム刻むときのハイハットがしっかりミュートされて次の音にいくもったり感も良い。陽気な ベースも良い。なぜか効果的に使われるテルミンも良い。隊長のリズムをあえて引き止めるようなボイスも良い。

で、いろいろ探ってると誰かがつくったリミックスバージョンを発見。ビートが人工的になっちゃうのは残念だけどこれはこれでいい。

そしてさらにソニックユースがカバーしてるバージョンも発見。ソニックユースにしてはけっこう原曲に忠実にカバーしてる感じじゃないだろうか。これはこれでいい。

でもそこじゃないんだ。今日ほんとうに言いたかったのはこっち↓

なんか…いいじゃないか。二回見た!こういう音楽は本来こうやって聞くもんなんだよ。「プッチョヘンザ!プッチョヘンザ!」とか言われてみんな一緒 にタオル振り回すようなもんじゃないんだよ。「おどれー!」とか言われて踊るようなのは音楽の力じゃないだろ。極め付けは「さわげー!」とかいう輩、ああ いうやつらは早く帰れ。

まぁこの映像ももちろん撮ることを多分に意識しながらやってるものだと思うけどあんまり人様に見せるような動きじゃ ないものをさらしてる感じがいいね。ついつい一人だとやっちゃう感ね。中高生とかが何かに目覚める瞬間はこうであってほしいね。青春じゃないか。「マイマ ザー、マジありがとう」とかじゃなく言葉にできない衝動があるって…素敵やん。俺は座って聴くけど。

Diary : 放送大学のテキスト

今日はちょっと写真と詩について。人が何かしらの芸術に共感したり共鳴したりするとき、そこには何かしらのグッとくるポイントがあると思う。で、それには大きく分けて2つのパターンがあって、1つは抽象的かもしれんけどとても強い力のあるもの。そしてもう1つはちょうどいいところに刺さるジャストミートなもの。どちらかといえば自分は後者が好みでここにある写真もそっち寄りのつもり。何が言いたいかというと表現における適度な具体性というものがある方が刺さりやすくなるよね、というお話。

写 真で言えば場所やキャラクター(特性?)を特定できるようなシンボルが入るだけで人によっては共感しやすいものになったり、文字の要素が入ることでより理 解が促進されたり。もっと言えば言葉で説明しやすいものは「なるほどね」っていうようにわかりやすいものになる。それは音楽における詩にも言えることで、 感情表現だけでなく具体的な行動や状況説明、さらには固有名詞が入るとより事象を限定的に扱うことができる。

もちろん具体的な方向に振りす ぎるととても退屈でつまらないものになりがちだと思うけど、皮肉みたいなことをテーマにしていこうと思う自分にとってはそこ、もうちょっと意識しみる方が いいかな、と。ある特定の意味まで素早くたどり着かせることで逆にそれを裏切ったり逆手にとったような手法にも進める気がするし。意味や解釈の広がりを追 求する芸術ではなく逆に限定的な表現でいかに意図した通りの印象を与えるか、っていう方向やね。

よく逆の方向に進む人もいると思う。若い頃はいろんなもの詰め込んで直接的すぎるほどの表現をしていた人が晩年はすごくそぎ落とされたミニマムな表現になっていく、っていう(格闘ゲームの必殺技の名前も二番目くらいに強いやつはすっごい長いのに、一番強いやつは漢字3文字くらいの究極な感じになったりするよね、関係ないけど)。それはそれでありだけど自分はとりあえずそういうの意識してみようと思う。まぁ結果的には自分なりにバランスとりながら抽象と具象を織り交ぜていくんだけど。

なんでこんな話になったかというと、ある歌の詩の一節が最近頭にこびりついてたから、具体的なもの(ここでは固有名詞)ってやっぱり強いんだな、って思ってたのです。

(前略) 玄関先に吊るされた 放送大学のテキスト 横目で見ながら 一人の部屋 何つくろう 好きなものを食べる 好きなものを飲む 好きなものを遊ぶ 長い夜 (後略) 「ちょっとだけの時」by豊田道倫

こ の「放送大学のテキスト」のワンフレーズでドラマがグッとドラマチックになるよね(矛盾してる?)。これが意味の限定につながるかと言えば逆に広がってる ところもあると思うけれど、意図した世界への入り口にはなってるはず。YouTubeのアドレスとか貼れたら良かったけど見つからんかったから気になった らCD買って。えーと…結論はありませんが皆さんもちょっとその辺意識してみてください。何か変わるかも。この文章自体が抽象的な感じもするけど…まぁ… そんな感じ。おはよう。